最近読んだ2冊の本に絡めて、ちょっと思ったことを書いてみる。
サマリー
- 人間は知識・スキルを集団内で分業することで発展してきた
- 個々の分野について「知ってるつもり」になっているのがデフォルトだが、他人の知識・スキルにアクセスすることで補っているのが実態
- 他者への情報提供においては、知識へのアクセスのしやすさ=わかりやすさが歓迎される
- 一方で、投資は自己責任原則の下に行われる難易度の高い取り組みである
- 複雑な事象をわかりやすく提供するほど、投資主体の「知ってるつもり」が加速し、本来必要な知識の獲得を怠るリスクが高まる
- 結果的に損失を負っても、責任は投資主体にある
- 情報提供者は、「わかりやすさ」と上記のリスクを天秤に掛けることになる
『ほったらかし投資術』の「わかりやすさ」と「ワリキリ」
今さらながら、ロングセラーの『ほったらかし投資術』を読みました。
本編も良い内容でしたが、著者2人と、元バンガード・インベストメンツ・ジャパンの広報担当、金野真弓氏の対談が面白かったです。
リーマンショック後のバンガード・インベストメンツ・ジャパン草創期、誰も投資になんて見向きもしなくなって閑古鳥が鳴いている中、手探りでバンガードの普及に取り組まれた話はめっちゃ興味深かったです。これ単体で、普通に本として読みたいと感じました。
一方で、本編の内容には「ここって難しい問題だよなぁ」と、ちょっと引っ掛かる部分がありました。
本書は今回で2回目の増補改訂版なのですが、その過程で内容をよりシンプルにわかりやすく、洗練させたそうなのです。
具体的には、これまで共著者2人の意見が割れるところは両者の意見を併記していたのを統一したり、付随的な議論をそぎ落としていったそうです。
その結果として残ったのが、「オルカン積立しようぜ」というシンプルな解を分かりやすく伝える本書なわけです。
多くの方にとっての「ベストプラクティス」を手軽に知ることができる良書だと思います。
他方、読んでいて「ここは結構、割り切った記述にしているな」と感じる箇所も散見されます。
例えば、一括投資・分散投資のどちらがいいかと言うテーマについては、「機会損失が最小になるから」「まとまったお金があるなら、一括投資が合理的」という記述になっています。
これ、相当に議論があるものだと思います。
個人的には投資する時間軸に関する認識(5年、10年じゃないっすよ)をかなり丁寧に説明しなければならないと感じるのと、本当に大まかな金融サイクル(緩和&引締めくらい)を無視することの「機会損失」は、話しても良いのかなぁとは思います。
(タイミングが読める人はタイミングを読んで一括投資せよと書かれていますが、読めない方は今すぐ一括投資せよと書かれています)
あとは、機会損失を逃すリスクと引き換えに、どういった心理的な負荷を経験するリスクを引き受けることになるか…といった点でしょうか。
この辺りは、「~するのが合理的」の理(ことわり)の部分が、どういった価値観を前提にしているのか、どういった人間主体をモデルとしているのか…という話だと理解しています。
Source:ほったらかし投資術
このへんは本来、丁寧に説明をして行きたいところではないかと。
おそらく、紙幅の都合や「わかりやすくシンプルに」伝えるというコンセプトに照らして、このような形になったんだろう…と、想像しました。
この一括か分散かは、投資を実行するに当たって高確率でぶち当たる問題であり、著者としても載せた方がいいと判断したのでしょう。
制約がある中で、読者の抱える難しい問題に答えようとする姿勢は、意欲的かつ誠実な対応だと感じました。
ただ、やはり「主張の根拠や背景を知らずに、ピュアに投資する読者の中には(本人にとっては)想定外のつらい経験をする人もいるだろうなぁ」と考えてしまいます。
これ、大きなテーマとしては、
「他者へわかりやすく伝えること」と、
「本人が責任を引き受けられる程度に十分な情報提供をすること」、、
この2つの間にあるジレンマかなぁと思います。
みんな「知識の錯覚」の中で生きている
最近お気に入りの『知ってるつもり』という書籍によると、
人はコミュニティにおいて知識の分業…集団的思考をすることで、高度な社会を発展させてきたそうです。
そして、普段、本当は個人の知識は限定的であることを自覚せず、「知識の錯覚」の中に生きてます。
よくありますでしょう?「それ、詳しく説明して?」と言われて、初めて自分の理解が浅いことに気づくこと…
本書では「なぜトイレが流れるか、説明せよ」というお題が出ていましたが、私、恥ずかしながら全然わかりませんでした。
なんで、レバーをちょっとひねるだけで、あんなに勢いよく水が流れるんですか?普段、原理もよく分からんものの上にケツを置いて用を足しているわけですが、気にならないんですか?
ここでさらに、「ところで、スマホの原理は…」という話は必要ないでしょう。
私たちが「他人の専門知識で作られた動作原理のよくわからないもの」に囲まれまくって暮らしていても発狂しないのは、そもそも脳自体が知の分業をしながら発達してきたからなわけです。
さらに言えば、その「よくわからないもの」が自分に害を与えない…スマホが突如爆発するのでは?などと疑わずにいられるのは、分業相手を「信じる」性質があるからです。
他者を信頼することで、高度な知の分業体制を構築してきたわけです。
集団的思考と投資の責任原則は相性が悪い?
一方で、これは「失敗すると金銭的損失を伴う、専門知識が必要な実践分野」とは頗る相性が悪いように思います。投資ですね。
投資においてもコミュニティ(Youtube, Twitter等)から知のバックアップを受けて市場に臨むわけですが、その知識が「わかりやすい」程、「おれは投資を分かっている」という知の錯覚を深めるわけです。
他方、投資がそんな簡単なものじゃないことは、皆さんご存じの通りです。
例え、他者から得た知識を基にして失敗をしても、金銭的損失という形で責任を負うのは自分自身です。詐欺行為の場合はまた別ですけどね。
情報提供者としては、投資主体が知の錯覚に陥らないように「そんな簡単な物じゃなくて、こんなに難しい論点があって、高度な意思決定なんすよ」と懇切丁寧に説明することもできます。
でもそれだと、モノ好きな人しか話を聞いてくれません。
だって、そもそも僕らは分業がデフォルトですので、「自分で確り一から理解して決める」なんてことは、珍しい部類に属する行為なのですから。
さらに、投資主体は情報提供者を「信用」しますから、望まない結果になると「信じてたのに!」と、こうなるわけです。
さらに投資と言う分野で難しいのは、マーケットが生き物である点です。
つまり、人々の投資行動自体がフィードバックループ的にマーケットそのものを変化させるのです。
- 「投資は簡単だ」という錯覚が世に広まることで投資ブームが起きる
- 次々にこれまで、投資に参加してこなかった層が株を買い始める
- 買いが買いを呼ぶモメンタムによって、マーケットが過熱する
- 最後の買い手が買い終わったとき、マーケットが崩壊する(←今ココ)
…と言う感じです。
「わかりやすい知識の提供」を超えた伴走者が必要
で、話を戻すと、
情報提供者は「わかりやすさ」と「錯覚に陥るリスク」を天秤に掛けざるを得ません。
YoutubeやTwitterを観察していると、多くの場合は前者を取るようですし、投資主体もそれを望んでいるように感じます。
こうした現状に鑑みるに、「じゃあもっと各自の理解度を上げて、自分だけで意思決定しようぜ」という方向性は現実的ではない気がします。
その方が「キレイ」だとは思いますが、私たちの脳の自然状態に反するなかなか酷な話とも思います。
もちろん、程度の話もあるので、自分で責任を負える程度の納得感を得るための知識は必要だと思うですけどね。
それこそ、こうした知の分業の担い手としての金融サービス事業者に需要があり、手数料に対する正当な付加価値の提供のしどころではないか?と思っています。
前回の記事でも、長期投資つらい問題に対する1つの方向性として、伴走者が必要では?ということを書きました。
次回辺りにでも、もう少しこの辺を掘り下げてみたいと思います。
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