資産形成の灯台

様々な投資戦略の学習・実践中。最も尊敬する投資家はハワード・マークスです。

なぜインデックス投資論争は起きるのか?

どうも。くじらです。

またまた更新が空きました。。今日は最近読んだ本に仮託して、投資スタイルの違いについて書いていこうと思います。

 

元ネタ、もとい読んだ本はこれです。

 

 

 

投資における意思決定基準の相違

よくある「なんとか論争」は、意思決定基準の相違が根にあるように思う。インデックスがいいか、レバ全力がいいかみたいなやつね。

現状(ファクト)をどう認識しているかや、将来(予測)をどのように見ているか、などの前提条件が同じであったとしても、意思決定基準が異なれば、採る選択肢も異なる可能性がある。

 

本書で紹介されている意思決定基準は以下の3つ。

世で持て囃されるインデックス投資は、ミニマックス・リグレット基準を採用する態度ではないかと考える。

また、それぞれ期待効用の最大化はグロースやレバレッジ派、マキシミン基準は預金などと対応関係を考えるのは楽しい。

他の条件が一定であると仮定した場合、
どの意思決定基準を採用するかは、各人の心の有り様に依存すると思う。

3つの意思決定基準

期待効用の最大化

主観確率に沿って、将来のリターンの期待値が最も高い選択肢を選ぶ。
失敗時のDDなど気にしない。最も期待値が高いのはレバ全力ツッパ。これが「合理的」。

マキシミン基準

最悪のケースを想定したときに、最もマシな選択肢を選ぶ。
常に頭の中には暴落があるので、預金以外の選択肢はあり得ない。

ミニマックス・リグレット基準

「あーあ、こうしておけばよかったのに」を最小化する。
起こり得る状況のパターン別に、最善の選択肢と取り得る行動のギャップ(機会損失)を計算する。
これを選択肢別にみたときに、もっともギャップが小さいものを選ぶ。

ギャップは、(上下どちらのベクトルにも)極端な値との差として生じる。
したがって、得てして中庸的な戦略がこのミニマックスリグレット基準に当てはまりやすい。

例えば、インデックス投資はこれに当てはまるのではないか。
相場が好調時は、レバ全力ツッパなどに比べてパフォーマンスは劣るが、全額預金よりはよほど良い結果になる。「まぁ、ノーポジよりは儲かったから…」

反対に暴落時は、預金に比べれば資産は減るが、レバ全力ツッパなどに比べればDDは小さい。「まぁ、レバ全力ツッパよりは損してないから…」

この意思決定基準は、「分散」の概念と相性がいい。
分散は複数の選択肢のミックスとなり、結果も複数の選択肢の中庸的な解になりやすいためだ。

インデックス投資で投資対象を分散し、さらに購入タイミング=時間的分散まで求めるかどうか、、と言う話もあるだろう。

 

下手くそな図表で、以上の説明を図にするとこうだ。

将来的に相場の上昇が”主観的に”見込まれる中で、各人が意思決定基準の相違でどのように行動するかを示した。

同じ相場予測をしていていも、意思決定基準が違えば三者三様の選択をする可能性があるわけだ。

 

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おそらく、世の人の大半はミニマックス・リグレット基準か、マキシミン基準に基づいて行動するのではないか。
(世の人という大きな主語は、私の周りにいる”日本人”を意識している)

損失を避ける性質が強いほど、マキシミン基準を採用するインセンティブが強くなる。
日本人の預金比率が高いのは、この辺りに根があるのではないか。世代によっても異なるとは思うが、、

損失を避けようとする心自体は、多くの人に備わった防衛反応であり、自然なものだ。
一方で、リスクがあっても期待値が高いところを取りに行こうとするプレーヤーがいる中で、そうしたリスク回避的な姿勢のプレーヤーが生き残れるかと言うと、これはまた別問題だ。

当然、「マキシミン基準で良かった…」というシチュエーションは、最悪の事象が実現したケースであり、それ以外の場合はふつうに一人敗けになる。
(ただし、評価する時間軸にもよる。短期的にマーケットが押しているときはマキシミン基準が一時的に有利になる)

ある意味では、「最悪の状況の実現」に賭けた究極の逆張りスタイルとも言える。
周りが成長を追いかけている中でこのスタイルを続けていると、購買力の低下が効いてくるので地味に痛い。

 

もう少しリスク許容度の高い心の持ち主は、ミニマックス・リグレット基準を選択するかもしれない。
リスクを取ること自体は吝かではないが、純粋な期待値だけに基づいて判断をするわけではない。

予測(主観的確率の分布)を外して逆を突かれたときのことも考えて、どのような未来になっても後悔の少ない選択肢を選ぼうとする。ある意味では、最も現実主義者かもしれない。

 

ただし、この意思決定基準を採用する限りは突き抜けた選択肢を選ぶことはない。したがって、短期的に大きく資産を伸ばすようなホームランを打てる可能性はほぼないだろう。

代わりに大外しもないので、これはトレードオフをどう受け入れるかという問題だ。

将来の不確実性をどう見ているかも意思決定基準の選択の決定要素

将来の不確実性をどう見ているかも、意思決定基準の選択において重要な要素だと思う。
なぜなら、そもそも将来何が起きるかがわかっているなら、期待効用の最大化(レバ全力ツッパ)しておけばいいのだから。
あくまで「未来は複数のバリエーションがあり得る」と言う前提条件(信念)があってこそ、マキシミン基準やミニマックス・リグレット基準などの、他の未来を意識した意思決定基準(発想)が生まれてくる。

さらに言うなら、主観確率に対する確信度によっても、どの意思決定基準を選択するかが決まってくるだろう。

ここまでくると多分に心理的な面が強い。

例示のように、「将来的には上げ相場になる確率が高い」と考えていても、「そもそも自分自身の将来予測を信じられない」というメタ的な自信が低い場合は、マキシミン基準やミニマックス・リグレット基準などのより保守的な意思決定基準の魅力が高くなるだろう。

 

個人的には、結局はこの「不確実性とどう向き合うか」という問題に帰着するような気がする。

何らかの強い仮定を置けば、あとはロジックを組むだけなので意思決定に迷いなど生じようがない。
「わからない中で、決めなければならない」
「”わからない”ということ自体を前提にして、戦略を立てなければならない」

こうした不確実性の要素が絡むからこそ、意思決定は狂おしくも多様で色彩に富んだ分野なのだと思う。

 

”平等性”という厄介な問題

投資の意思決定とは全然違う問題として、民主主義における政策決定プロセスでは”平等性”という厄介な問題が付いて回る。

先ほどの意思決定基準とは別ベクトルとして、「その政策は共同体の構成員に対して、事後的に平等な結果を提供するか」という評価軸がある。

例えば、未知のウイルスXに有効と思われる治療薬の候補が複数あるとする。
さらに、効果は一定以上の集団に対して実際に処方してみるまではわからないとする。
これを共同体の構成員に対して、どのように処方していけばよいか。

 

著者は、適応的ミニマックス・リグレット基準という発展的な意思決定基準を提唱している。
これは、時間的にも空間的にも分散をしつつ、「うまくいったものを残す」戦略である。

まず、集団をいくつかのグループに分けて、「最初の方に処方するグループ」「後の方に処方するグループ」といったように、処方のタイミングを分散させる。

さらに、それぞのグループ内でも異なる治療薬を処方するサブグループを作る

後は、最初のグループで各治療薬の効果を確認し、効果が確認された治療薬を後のグループにも使っていく、、という戦略だ。

 

言葉にしてみると、極めて「現実的」な戦略だと思える。
最初からドンピシャで最高の治療を全員に施せるパターンよりは救える命は少なくなるだろうが、それでも不確実性の基で出来るだけ多くの命を救える選択肢だろう。

 

一方で、この選択肢は構成員に起きうる結果は”平等”ではない。
すなわち、最初の方のグループであるほど、「効かない治療薬」を処方される可能性が発生しうる。

 

これを倫理的に許せない考え方と言うのは、あり得る。
これを許容できない場合、構成員に対して一律、同じ治療を施すべきだという発想さえ、生まれうる。

さすがにここまで極端な選択をすることは少ないと思うが、それでもそうした意見に”引っ張られる”ことはあるだろう。

本来、不確実性にうまく対応して救える命を増やそうとしているのに、そうした選択の実行に多大な説明・納得のためのリソースを割かざるを得なくなったりとか。

例えば、「人間を実験台にするなど、なにごとか」といった声は出てこないだろうか。わりと、簡単に想像できる。

こうした声が出てきた場合、政策の決定者(政権与党)はこれらに”配慮”する必要が出るかもしれない。
時として、”結果”よりも”行動自体”が重視されるからだ。特に、発言者が為政者にとって配慮すべき属性の人間であれば、なおさらだろう。
(もっと言えば、上記は建前的な理由で、目的は別にあるパターンもあるだろう)

 

不確実性が少なかったり、選択の誤りがクリティカルな結果に繋がりにくい状況であれば、このような平等性への配慮もいいのかもしれない。
しかし、一歩間違えれば「国民のほどんどが、未知のウイルスで全滅」みたいな最悪の事態も惹起しうる状況下では、致命的な判断の誤りになりかねない。

そんなことになれば、平等を叫んでいた人々も含めて、「いやなんで他の選択肢も試さなかったんだよ」という意見になるだろう。

 

共同体を集団として見た場合の結果の良し悪しと、個人の視点で見た場合の結果の良し悪しは別問題だ。

集団として良い結果を得るための戦略が、個人によっては不幸な結果を招く可能性はどうしても排除できない。

結果の平等性を強く求める共同体では、このような事情によって政策のフリーハンドが大きく制限される。

逆に、より分権的であったり、「個人に異なる結果が起こり得ることを受容する」社会においては、上記の適応的ミニマックス・リグレット基準のような意思決定基準が採用されやすいだろう。

このあたりは、米国の民主主義や文化、州制度というのは良く出来ているなぁと思う。

 

なかなか社会を変えることは難しいが、個人単位で「適応的」に生きることはできる。
これは私自身の偏見だが、平等≒他人と同じを求めると、大体は低い方に合わせることになる印象がある。当然に社会福祉などの分野では救うべき層を救うことは必要だが、やり方は事後の調整など、色々と方法があって然りだろう。要は、バランスの問題だ。

他人と異なる選択肢であっても過剰にリスクを恐れず、うまくいく戦略を試しながら生きていくのが、これからの不確実性が高い世の中を生きるのに良い戦略なのではないかと、月並みながら思う。

 

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