資産形成の灯台

投資・投機との関わり方に関する思索を垂れ流すブログ。

「ルールを守れば救われる」という道徳的投資観が存在するのでは?

 

本日は たまに感じることについて 仮説として書いていきたいと思う。 あまり はっきりとした具体例があるわけではなくて、 なんとなく こういった 考え方をしている人がたまにいるのではないかと感じる程度の話である。

 

 自分の中では「道徳的投資観」というキーワードで呼んでいる。

 

 どういうことかというと、 道徳や 倫理を守るような感覚で、投資の規律や投資のスタイルを遵守するような人がいるように思うということだ。

 

 一番わかりやすいのは インデックス投資 や 長期積立の分散投資などである。これらの投資方法を 守っていれば、必ず報われるというような考え方だ。 これは悪いことをしたら、罰せられる& 良いことをしたら、 ご褒美があるといった 因果応報的な世界観に近いと思う。

 道を外したものの例としては、 信用取引 だとか テーマ株だとか、 一般的に株クラ界隈でよくないものだとされているものがやり玉にあげられる。

 

 こうしたものを避けてきちんと 長期分散 積立の投資を続けていれば、失敗をすることを避けられる。 この「失敗を避けられる」というのも キーワードのように感じる。

 

 

「ルールを守れば救われる」という思想

  インデックス投資 や長期分散 積立 というのは、あくまで  1つの方法論にすぎない。 十分な期間においてこの方法論を実践すると、過去のデータ 上は投資が成功しやすいということにすぎない。 これはあくまで 統計上は有利と言った話であり、 成功を保証するものではない。

 一方で、 インデックス投資や 長期分散 積立をお題目として唱える人の中には、こうした方法論を続けていれば、あたかも ご褒美として成功が約束されるといったような語り口をする人がたまにいると感じる。

 

 そこには 統計上の考え方があるのではなく、 あくまで 自分自身がその方法論をいかに守ったかといったことが、 成否を左右するかのような考え方がにじみ出ているように思う。 

微妙な違いのようだが、ここは大きい。 ルールを守ること自体と、 投資の成功が因果関係で結ばれているというような暗黙の前提があるのではないか と感じている。

投資の成功は、複雑な因果関係をたどって 株価が上昇した結果もたらされる。そこには、リアルな世界における金融・経済のリアルなパスが存在する。 これがたまたま、 投資戦略と合致した時に成功がもたらされる。人間の認知機能で捉えるには かなり、 負荷が高いもののはずである。

 決して、「ルールを守る→ 成功する」という リニア かつ シンプルなパスではない。 道徳的投資観においては、 真ん中の複雑なパスが省略されて、ルールの遵守自体が 成功の秘訣として尊ばれるのである。 結果として それが成功につながるわけだが、「何によって成功がもたらされたか」 という 因果のパスが極めて単純化されているのである。 そこには運といった 不確実性に属するような事象は考慮されていない。 

 

 本人は これを自覚していたり、 言語化できていなくても、無意識的にこうした考え方をベースにしているのではないかと考えている。

こうした考え方は、あたかも 親や先生の言うことをよく聞いていれば、いいことがあるといったようなもの と 類似しているように見える。

道徳や倫理、社会規範の延長線上で投資を理解する

こういった 考え方に近いものは、例えば 道徳や 倫理、社会規範 などと呼ぶのではないか。 いずれも 社会を円滑に運営する上で、 その構成員に対してインストールされる行動規範の一種だと私は認識している。

特定の投資手法を強く推す人の中には、なんとなく、 これらと同じノリで特定の投資手法を守るべきことを主張する人がいるように感じる。

 

 本来的に投資というのは、不確実性の塊である。 統計上の有利不利は計算ができても、 それは 特定のリターンを保証するものではない。 大きく上振れをすることもあれば、 逆に 下振れをすることもある。 こうした性質のものは、意外と、普通に生きているとなかなかないのではないか。 

 

私たちは学校で勉強をしてテストをして評価をされる、というようなプロトコルを忠実に 繰り返して育ってきた。 これらはある程度、 努力に比例して得点が上がっていく 性質のものだと思う。 つまり、それなりに 予測可能な世界に属しているのではないかと 考える。

投資や事業 といったものは、必ずしも自分の努力だけでは成功するとは限らない。 時の運 というものも必要になるし、努力にしたって方向性が間違っていれば、成果には結びつかない。 

学生の頃からこうしたものにどっぷりと浸かっていた人は別として、投資のような不確実な世界というのは、 多くの人にとって異質なものなのではないか。

信賞必罰、因果応報はムラ社会の日本にとってなじみ深い思想だ

こうしたものに相対した時に、 従来の安定的な世界と同じものの見方、 フレームワークで理解をしようとする人がいるのではないか。

 それが冒頭で言ったような道徳的投資観を生じせしめるのではないかと思う。信賞必罰的な「いい子にしていればご褒美がもらえる」という世界観だ。

このような不確実性の世界を、 正反対である確実性・ 安定性の世界とのアナロジーで理解をしようとするのは、 なかなか面白い構図である。

 

他の国の人たちのことはよく知らないが、日本人にとって こういった 考え方は相性がいいのではないかと思う。日本人は筋を重視するといった 話や、村社会の安定性を確保するために社会規範を守ることを重視するといった 話もよく聞く。そうした社会的背景のもとで育ってきた結果、 投資という行為に対しても 村社会で生きていく時に使っているのと同じ 神経回路で結果の予測や判断をしているのではないか。

 

実際、  道徳や 倫理 といったルールの遵守には リターンや、裏返しのリスクがあったはずである。  ルールを守れば、先生や親から褒められる。 その一方で ルールを破れば 叱られたり、 村八分にされることがある。 本質的にルールがどういった結果をもたらすかはさておき、 社会的な反響を考えた場合、 ルールの遵守には合理性があるわけである。

 自分自身がルールを破った時もさることながら、 ルールを破った 周りの人間がどういった 扱いを受けるかを目の当たりにして育ってきたはずである。 ルールを破った人間に対して容赦なく 社会的制裁を与える 周りの人間を見て、私たちの社会のあり方を学んできたはずである。

 

 その結果、 ルールを守ること自体に インセンティブが生じて、さらにルールを守る行動を促す という正のフィードバック ループが生じる。 さらには、 ルールの対象とされていない領域にまで、 ルールを守るというような考え方を適用するようになる。 そしてそこには、 ルールを守った時のご褒美と、破った時の罰が 生じなければならないといった 因果応報の世界観が付いて回る。

特定の投資手法を信奉する人たちの中には、自分たちが悪だと考えている投資手法を実践する人に対して、苛烈な攻撃をする人もいる。 こうした反応は、あたかも 戒律を破った背信者に対する懲罰のようにも見える。 異なる次元の話ではあるが、割と頭の中で使っている 神経回路は同じものなのではないかと 考えている。 

自分たちが信じる 行動規範に照らして悪であることを実践しているのだから、 その人は罰を受けなければならない。 そうあらなければならない。そうした因果関係が働かなければ、この世界はおかしい。こうしたメッセージがにじみ出ているように感じる。

規律の維持という点では悪くないかもしれない

 ここまで 一見するとネガティブな 論調で書いてきたが、 投資における実利的な面からは意外と悪くないのではないかと考えている。

こうした人々は、純粋に投資の規律を守るという点において優秀であると思われる。 社会的規範は集団性を帯びたものである。 仲間同士で自分たちが同じ社会規範 で結ばれていることを確認し合い、 ルールの遵守をお互いに 称え合う。こうした 自分たちの行動を強化するような行動を通じて、 規律を遵守できる可能性を高めているように思う。

 もちろん 先ほどのインデックス投資 や、 長期分散 積立投資も規律の順守が重要であるし、十分に長期間投資をすれば勝てる見込みも高くなってくる。

社会規範 であろうが何であろうが、 暴落時に投資を続けるには何らかの信念が必要になってくる。 それがたまたま 社会規範的なものの見方なのか、 統計的な優位性に対する理解なのか、はたまた 世界経済の継続的な成長に対する自信なのか… 何にせよ 自分の行動を曲げないための信念が必要になる。

 

 行動の継続という結果を生じせしめるのであれば、 別に何でもいいのだ。

 このような観点において社会規範のアナロジーで投資行為を理解するということも、 悪くはないのではないかと思う。

 もちろん、 異なる投資法をしている 他者に対して噛みつくのは シンプルに 害悪 だし、 個人的にはこのような考え方を持っている人とは、 投資の話で盛り上がれる自信がないが…

投資教育でも倫理・道徳的な思考フレームワークで教えられているかも?

実際に 学校などでも 投資教育が始まっているわけだが、 統計的に優位だとかどうのこうのというよりは、 道徳や 倫理の延長線上で、「投資を行うべきだ、 そうすれば報われる」といったことが 語られてるのではないかとも 想像している。もちろん ここまで露骨な話があるとは 微塵も思っておらず、 あくまで、どういった 考え方や ナラティブをベースにして語られているかという話である。 

 現場を知っているわけではないので、 これも 単なる妄想 レベルの仮説 なのだが。

 

 投資を教える先生方も、自分自身で経験として投資を知っている人は少ないのではないか。 そういった場合は余計に知識として、「投資をした方が有利である、投資を行うべきである」といったことを 教える スタイルになるのではないか。

 投資をして失敗した経験があると、  この辺りをあたかも 客観的事実 かのように語るのはためらわれるのではないかと思う。 投資において、 運という要素がいかに重要なファクターであるかというのが、 実体験として分かっているというのは大きいと思う。 

 

こうした経験がないと、従来から行われてきた道徳や 倫理と同じような ナラティブで 教える スタイルになりがちなのではないか。 ファクトがどうのこうのというよりは、 ベストプラクティスとして守るべき形式・ルールが与えられ、 これを遵守するものには将来の報酬が約束される…と言ったような形態だ。

繰り返すが、 先生方が単純な考え方をしているという話ではない。人は新しい物事に触れる時に、既存の 類似する(と思われる)考え方や概念を応用して捉えようとする。思考のフレームワークと言ってもいいかもしれない。

一昔前に、水に優しい言葉を聞かせると、美しい形の結晶ができるみたいな本が流行った。 これは 物理現象を人間の人格というアナロジーを使って 捉えようとしている。 そんなアホなという話なのだが、割と「 そうか、 人間の人格と同じようなものなんだ」 というノリで納得してしまう人もいる。 既存の概念を使って新しい物事を理解するのは、認知的な負荷が軽いのである。 そのため、 脳はそうした 捉え方をすんなりと 受け入れてしまうことがある。 

 

今回のケースも、無意識レベルでは道徳や 倫理 といったフレームワークに寄せて、 投資について教えているケースもあるのではないか。 つまり、 成否が確率論的に決まるというようなものではなく、因果応報的なべきの世界観に寄せて語られる場面もあるのではないかと思っている。

先生にその気がなくても、少なくとも生徒の方で、 そのようなフレームワークで理解をしようとする人もいる気がする。 もちろん全員が というわけではなく、そういったケースもありえそうだという程度の話だが。 

どうせなら強烈な信念をインストールして規律を維持するのもアリか?

先ほどとは反対のことを書くようだが、 このスタイルは 投資を継続させるにおいて若干 心配な面がある。 暴落時などの信賞必罰のルールから逸脱するような事象が生じた時に、信念を維持するのが難しくなることがないかということである。

 自分はルールを守っているのに、なぜこんなに 含み損を抱えることになってしまったのか。 ルールを守っているのに褒美が与えられずに 罰を受けている。これはおかしい。

 ここまで極端ではないにせよ、 似たような被害者意識が無意識に働くのではないかと思う。

おかしいもなにも、 ドローダウンを食らうことは 投資において当たり前だし、意思決定をしたのは自分なのだから仕方ないことなのだが、因果応報の世界からの逸脱を受け入れられない人もいるのではないかと思う。 

 

すでに 仲間内でのフィードバックループの中にどっぷりと浸かっている人たちは別として、教育として表面的にインストールされたばかりの人たちは、中途半端な信念のまま投資を始めることになるのではないか。

そう考えると、毒を食らわば皿までではないが、いっそのこと強力に長期分散 積立投資に対する信念を植え付けた方がいいのかもしれない。そういった 本来 投資 リテラシーと呼ばれるべき メタ的な認知活動がゼロの状態がいいのかどうかは別として、投資を継続するという実利的な目的の達成には、これが一番なのかもしれない。 「信じる者は救われる」 を徹底的にインストールするのだ。 …半分以上、冗談ですよ?

おまけ:GPT先生にご意見を伺った

プロンプト:

神経科学の観点から、これまでの議論の妥当性をレビューせよ。

 

出力結果:

神経科学の観点から、これまでの議論の妥当性を検討します。主な焦点は、投資に関する教育や信念の形成、無意識の働き、および被害者意識の影響についてです。

1. 投資教育と信念形成
神経科学的には、信念形成は脳の報酬系が関与しています。教育や経験を通じて、投資に対するポジティブな結果が得られると、報酬系が活性化され、その行動を繰り返す可能性が高まります。しかし、教育が不十分であると、中途半端な信念や誤った期待が形成されることがあります。

2. 無意識の働き
無意識は、私たちの行動や意思決定に大きな影響を与えることが分かっています。投資に関する無意識のフレームワークが道徳や倫理に基づいている場合、投資家はそのような価値観に沿った投資を行おうとする可能性があります。これは、投資家が自分自身で気づかないうちに行っていることもあります。

3. 被害者意識
投資で損失が発生した際に、被害者意識が働くことがあります。これは、自己評価や自尊心に関連した脳の部位が関与しています。被害者意識が働くと、投資家は自分がルールを守っているにもかかわらず損失を被っていると感じることがあります。

4. 信念の維持と認知的不協和
投資において損失が発生した場合、認知的不協和が生じることがあります。これは、自分の信念と現実との間に食い違いがあると感じる状態です。認知的不協和を解消するために、投資家は信念を見直すか、現実を信念に合わせて解釈しようとすることがあります。

以上の神経科学的な観点から、議論の妥当性は一定の根拠があると言えます。しかし、投資における教育や信念形成に対する神経科学の理解

はまだ発展途上であり、今後の研究が必要です。特に、投資教育がどのように信念形成や無意識の働きに影響を与えるか、被害者意識が投資行動や投資継続にどのような影響を与えるか、また認知的不協和が投資家の意思決定にどのように作用するかなど、さらなる検討が求められます。

加えて、神経科学的な観点だけでなく、心理学や行動経済学の視点からも、投資教育や信念形成のプロセスや、投資家の心理的な働きを理解することが重要です。例えば、確認バイアスや過剰自信などの認知バイアスが投資行動に影響を与えることが知られています。

最後に、投資家の個々の性格や経験、教育背景、価値観なども、投資に対する信念や無意識の働きに影響を与えることが考えられます。したがって、一概に「信じる者は救われる」を徹底的にインストールすることが最善の方法であるかどうかは、個々の投資家によって異なる可能性があります。投資教育や信念形成に関しては、個々の投資家のニーズや背景に応じて、柔軟かつ効果的なアプローチが求められます。

 

金融教育については、こっちでも書いている。

 

www.lighthouse4you.com

 

 

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