投資家って何だろうか。
ここもとは大変相場が好調で、順調に資産が増えていっている。一方で、以下のような書籍を読むと、果たして投資家とは何だろうかという疑問も湧いてくる。どれも、個人的に好きな1冊である。本日はこのことについて少し掘り下げて考えてみたい。
書籍では以下のようなことを論点にしている。なお3冊の内容を勝手に私の頭の中で解釈したうろ覚えのちゃんぽんなので、そこはご容赦頂きたい。
- お金とはある一面的な価値の尺度にすぎない
- 実体経済は人間による労働力の提供で成り立っている
- みんなが投資家になったら労働力を提供する者がいなくなる
- 本当に世の中に役に立つことはケアなどのエッセンシャルワークなど、人のため誰かのために何かをすることではないか
私自身、非常に納得がいくものである。昔から資本家とか高利貸しは蛇蝎のごとく嫌われている。寝ていてもお金が入ってくるということで人々の公平や平等という素朴な感覚に反する存在であるし、資金提供を受けられなかったりアコギな返済を迫られたりで現実に嫌な思いをしてきた人がわんさかいるからだ。
実際にこのまま順調に相場が上がると、私自身、仕事が嫌になった時に脱出できるだけの元手が用意できそうである。しかしその元手の大半は投資で得た利益であり、仕事から脱出した後は生産活動の比率は下がり、もっぱらは消費に重きを置いた生活になると思われる。そうした元手と生活、これって自分の中でどう受け止めれば良いものなのかというのは疑問に思っている。
投資家は事業変動のバッファー的役割の担い手である
そこで、そもそも投資家は世の中にどんなことで役に立っているのか、ということを考えてみたい。
まず思いつくのはリスクマネーの供給だと思う。みんな金融は嫌いだと思うけど、リスクを取らない人たちに代わって金融がリスクを取ることによって、世の中のお金の流れを整えている側面がある。投資家の場合は株式を保有することで企業に対してリスクマネーとしての資本を供給する。
ただしこれは主に発行市場の話である。スタートアップなどが投資家から資金を拠出してもらうことで、世の中に新しいビジネスが生まれ、人々の生活が豊かになるきっかけにもなろう。こうした企業はまだ海のものとも山のものとも知れず、一般的なリスク許容度を持った人では投資が難しい。これに対して昔の大航海時代のようにあえてリスクを犯してマネーを供給するのは、投資家のすばらしい役割と言えよう。
一方で、大抵の一般投資家が持つのは流通市場において買ってきた株式である。これらはすでに発行されているものを買うので、新たに企業に対して資金が供給されるわけではない。あえて言えば流通市場において流動性を供給することは意味があると思う。しかし、これも果たしてどの程度の流動性があれば十分なのか。現在のインデックス投資を通じて供給されているような量の流通性が果たして必要なのか。ここは疑問に思っている。
ファーストペンギンとして資本を供給してした人たちから引き継いだ株式は、果たして何の役にも立っていないのか。
少し角度を変えて考えてみたい。結論としては企業が損失を被った際に最初にそれをかぶる役割を引き受ける役割として役に立っていると思う。
企業のバランスシートを見た時に、右側は上の方に債権者から借りてきた借入金と、下の方に純資産がある。この純資産は会計上の資産と負債をネットした後の株主の持分である。解散価値などともよく言われる。実際は資産が必ずしも時価評価されてるわけじゃないので、ほんまに文字通りの解散価値にはならないと思うんだけど、難しい話は置いておく。
単純化して話すと企業が損失を被った際は、まずこの純資産が減っていく。現時点における株主の取り分である純資産が減るということで、事業のリスクを一義的に背負っているのは株主になるのである。これに対して債権者は純資産分だけのバッファーがある。つまり株主のポジションよりもリスクが低い。だからその分、貸付金に対するリターンも低くなる。裏を返せば株主のリターンは、債券よりも高くなる道理である。株主資本に対する資本コストが借り入れよりも高いというのは、この辺の話である。
投資家がいないとどうなるねん
では、この世界に株主がいなかったらどうなるだろうか。どんな世界かよくわからんが。
所有者…リスクの引き受け手がいなくなるので、債権者にとってのバッファーがなくなる。元々銀行などの間接金融の担い手は、資本家よりもリスク許容度は厳しい。預金という形でもっとリスク許容度が低い人たちからお金を集めて貸し出しをしているからである。元本を回収できなければ預金者に損失を与え信頼を失う。だからそんな世界では、そもそも資金を出し得ないか、もしくは貸し倒れコストをめちゃくちゃ高く見積もったビジネスしかできないのではないか。そうなれば新しいことを始める人たちにリスクマネーは供給されないし、既存事業でも浮き沈みが激しいものには資金の出し手がいなくなる。これでは「現在の」自由主義と資本主義によって成熟した便利な世の中は成立しえない。我々が今まさに享受をしている便利な生活・豊かな生活はありえないのではないか。
流通市場で株を買った人も含めて株主は、こうした事業の変動を吸収するバッファの役割を受け入れることでその対価を得ている、というのが個人的にはしっくりくる。
よく理論としてリスクとリターンは釣り合うものだと言われているが、肌感としては上記のようなストーリーが分かりやすいと思っている。今の資本主義の世界では誰かがこの役割を引き受けなければならない。そこには職業としての貴賤などというものはなく、それを受け入れて良いと思うのであれば受け入れればいい。そういう世界である。上場前のスタートアップなどに出資をする段階とはリスク(社会への貢献度?)の高さは及ばないが、それでもリスクを伴う必要な役割である。
じゃあ、その役割の対価って適切なんすか
ここまではまあいいんじゃないかと言ってくれる人もいるかもしれないが、ここから先はまた議論が分かれそうに思う。ではそのバッファとしての役割を受け入れる対価の高低は果たして今、適当なのかどうか。
もはや言いふるされた感もあるがトマ・ピケティによるr>gの話である。
果たしてリスクの対価として得ているリターンはこれに見合っているのか。会社は法的には株主のものだが、そこに関わるステークホルダーは様々な人たちがいる。私たちは社会的動物であり集団で生活をしている。確かに法的には所有者であるが、事業から得た果実を全て独占していいかどうかは別問題である。その果実がどのように分配されるべきか、というのは社会のデザインの話である。こうするべきだ、という絶対の規範があるわけではない。法律という客観的なものはありつつも、自分たちが生きる社会をどのようにしたいかという主観が絡んでくる話だ。
1つの大きな論点として、労働分配率の問題があろう。政府が企業に対して賃上げをしろ賃上げをしろと言われまくって久しい割には、なかなかこの労働分配率が改善しないという話も聞く。足元は利益は改善している一方、従業員への還元はそれほど伸びていないためだろう。(とはいえ大企業を中心に割とベアの動きも見られている気もするが…)
そんなに単純な話ではないが、従業員に対する還元を増やせば株主の取り分は減る。このバランスはどうあるべきかというのはデザインの一つであろう。特に医療や介護などを中心としたケアの分野、いわゆるエッセンシャルワークについては労働者の取り分はもっと増えるべきだと個人的にも思う。
先に紹介した3冊のうちの一冊で言われていたが、人は何か新しいものを生み出す仕事に対しては高い報酬を認める一方で、社会を支えている何かを維持する仕事に対してはあまり高い報酬を認めない傾向がある。私たちの社会は新しいものを生み出すだけではなく、今あるものを支えていくことでも成り立っている。
資本の論理だけで分配の最適化が難しいならば、政府が再分配の役割を担うこともあろうが、現状を見るにあまりうまくいっているようには思えない。これについては壮大なテーマになってしまうのでこのくらいにしておく。
結論:社会のデザインって難しいね
繰り返すがこれは社会のデザインの話である。もしも冒頭で懸念を示したように「投資家」が増えることで、社会の役に立つような労働力の供給が適正でなくなってしまうのであれば、より多くの労働に対する報酬が必要になろう。
というわけで私の結論は、「投資家はみんな社会の中で一定の役割を担っているけれど、背負っているリスクに対するリターンの水準は適正かどうかよくわからん(社会のデザイン次第やろ)」である。社会のデザインって難しいね!
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